幸子の結末

Posted by 松長良樹 on 22.2011 0 comments 0 trackback
52139999_convert_20110122190957.jpg

 その橋は深い峡谷に掛かったつり橋だった。大きな橋ではなかったが切り立った崖と崖とを繋ぐように架けられていた。
 冷気を含んだ風が谷底から吹き上げていた。
 女はその橋の上にいて、思いつめたような眼差しで谷底を眺めていた。
 シックな紺色のワンピースを着ていた。何度も深呼吸をする。女は赤いパンプスを脱いで揃えて置いた。
 美人特有の線の細い何か儚げな影が女に纏わり付いていた。 娘ではなかった。年増というには若すぎた。

 ――恋多き女。新藤幸子は失恋の果て。橋の上から身を踊らせた。
 しかし、幸子は死ななかった。死ぬどころか気が付くと病院のベッドの上にいたのだ。
 何がなんだか判らない。誰かに助けられたとでもいうのか。幸子は朦朧とした意識のまま起き上がろうとすると、そばにいた医師に制せられた。
「まだ、寝ていないとだめですよ」
 若く凛々しい青年医師。
「あたしは、いったいどうなったの?」
 幸子が尋ねると青年が微笑を湛えて答えた。
「僕は釣りが好きなんですが、あの日は僕にとって久しぶりの休日でした。渓流釣りをしていたら、突然あなたが眼の前に降ってきた。驚きましたよ。それで僕はあなたを夢中で助けたという次第です」
「あの日っていつです?」
「ついおとといの事ですよ」
「今まであたし寝ていたの? 意識がなかったのね」
「そうです。でももう大丈夫です」
「まあ、あなたが… 命の恩人なの。ご迷惑お掛けいたしました」
 ちょっと悲しげに幸子が額に手をあてた。
「いいんです。誰にだって死にたいくらい辛い時がありますよ。でも生きてさえいれば、良い事だってきっとあります」
 青年の髪は艶やかで、吸い込まれるほどの澄んだ湖のような瞳をしていた。
「気が付かれて良かった。これで一安心です。しかし不思議だなあ。あなたが何処から落ちて来たのかわからない。あの辺りには橋がありません。あなたがあの切り立った崖に登ったとは考え難い」
 幸子はただぼんやりとして聞いていた。
「本当にあなたは運が強い人です。かすり傷一つ無い。所持品が無いので身寄りの人に連絡も出来なかった。警察にとも考えましたが、色々とご事情もおありだろうと考えまして……」
「本当にありがとうございました」
 何度も礼を言う。
 青年医師が部屋を出て、何の気なしに壁のカレンダーを見て幸子は驚いた。 
 2052年。という表示。
(どういう事だろう? 今年は2011年のはずだ。病院が人をからかう訳もないし、まさか…… )
 様々な想像や思念が頭の中を駆けずり回った。目眩がするほど頭の中が混乱する。そして、心の中で次の言葉に行き当たった。――タイムスリップ。
 空想小説の好きな幸子の頭にその言葉が突然浮上したのだ。
(もしかしたら、自分は橋から飛び降りた瞬間。時間を飛び越えてしまったのかも知れない)
 幸子はそう思った。そうとしか説明のつけようがないではないかと。
 幸子には記憶が無かった。どういう経緯で自分がここに来たのか思い出せないのだ。
 開業医の青年医師は幸子に小さな個室を与えた。どうしようもなかった。
 精神科の医者に相談すると青年が言った。いつの間にか一週間が過ぎていった。青年に連れられて精神科に行ったが、記憶は簡単には回復はしなかった。青年医師の好意で幸子はその小さな部屋に暫らく滞在する事となったのだ。

「気持ちがいい」
 幸子がそういった。公園のベンチに春風が心地よかった。空は冬の衣を脱ぎ捨てて淡い春色をしていた。
「たまには外出した方がいい。と精神科の先生が言った。少しは何かを思い出せそうですか?」
 青年が幸子の横顔を眺めてそう言った。幸子が首を横に振った。記憶は曖昧のままだ。しかし幸子の心は何かに満たされていた。
 簡単なことだった。青年といるだけで心の寂しさが埋められる。惚れやすい性格の幸子は淡い恋心を青年医師に抱いていたのだ。
 そのまま青年といて夕暮れになった。青年が幸子を外食に誘った。嬉しかった。
 それから酒を飲んだ。そして病院に帰る途中青年が幸子の手を握った。
 昼間あんなに饒舌だった青年が別人のように寡黙になった。
 手を握られた幸子は驚いたがそれを拒まかった。
「あなたは美しい…… 僕は」
 と青年医師が真剣な顔で幸子に言った。
「あたし。嬉しいです」
 身体を少し震わせながら幸子が答えた。
 青年が幸子の唇を求めた。幸子が反射的に応じた。狂おしいほど熱いキスだ。
 青年の舌が幸子の口の中にあった。無意識に舌を絡める。青年の吐息を幸子が吸い込んだ。青年の匂いだ。幸子の下半身がじっとりと熱くなった。
 青年がタクシーを呼んだ。タクシーは病院とは別な場所に二人を案内した。
 二人の恋の始まりだった。いやその恋は青年と幸子が会った瞬間に始まっていたのかもしれない。二人は身悶えするほどの熱い恋の虜になった。患者と医師の禁断の恋だ。
 幸子にとって青年は全てだった。医師であり、掛け替えのない恋人であり、心の支えであった。

 ――それは窓に水滴のつく雨の日だった。季節は梅雨に入っていた。
 ホテルのベッドに二人はいた。二人とも裸である。白いシーツが二人の裸体をくるんいた。
「あなたはいったい何者なんでしょうねえ」
 天井を見つめえてぽつりと青年が言った。
「あたしは、そう。きっと時の彼方からやって来た」
 青年が軽く受け流した。
 幸子はベッドの中で青年の肌に光るペンダントをなんとなく眺めていた。突然幸子が真剣な顔をした。はっとしたように上半身を起こした。ペンダントを手に取り、見つめながら青年に尋ねた。
「このペンダントどうしたの?」
 幸子がペンダントを凝視している。
「ああ、これ。これは僕の二十歳の誕生日に母さんから貰いました。母さんからのプレゼントですよ」
 それを聞いた幸子が突然ひどく取り乱した。
「も、もしかしてあなたの母さん。由佳という名ではない?」
「えっ。なぜ母の名をあなたが知っているんです?」
 青年が不思議な顔をしてそう答えると、見る間に幸子の顔から血が引いていった。
 五体を砕かれ、心まで、ぼろぼろに引き裂かれたような幸子の表情だ。目から光るものが止めどなくこぼれ落ちた……。泣き声さえ出ない。
 青年がその様子を見て身体を硬直させた。何がなんだか判からない。

 ――突然幸子の心にあの時の事がはっきりと思い出された。かつて夫だった男と別れる際に男に親権を奪われ、泣きながら小学生の娘に送ったあのペンダント。
 それは幸子の心のこもった銀のペンダントだった。

 幸子はタイムスリップと言う言葉を呪った。
 幸子は逃げるように無言でその部屋を出て行った。行くところもないのに。

 ――恋多き女。新藤幸子は失恋の果て。橋の上から身を踊らせた。


                               おしまい。
スポンサーサイト


  • password
  • 管理者にだけ表示を許可する

trackbackURL:http://kitunosuke8.blog33.fc2.com/tb.php/126-463475ab
▲ top