氷の妖精

Posted by 松長良樹 on 28.2011 0 comments 0 trackback
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 ――登山をこよなく愛するトムという青年がいました。
 青年は山に魅入られ、暇さえがあれば山に出かけていきました。
 高い山々の峰から壮観な景色を眺め、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。そんな瞬間に喜びを感じるトムなのでした。
 そのうちトムはより高く険しい山に挑戦したくなりました。
 ある日。数人のアルプス登山パーティの中にトムの姿がありました。トムは急な傾斜の雪渓と格闘していました。冷たくそそり立つ氷壁がトムの行く手を阻みます。その時トムを不運が襲いました……。
 いつになく慎重に登山をするトムでしたが、足を滑らせクレバスに転落してしまったのです。
 しかも直後に雪崩れが起こって誰もトムを助ける事が出来ませんでした。気の遠くなる中でトムはもうおしまいだと思いました。
 トムはそのまま気を失ってしまったのでした。

 けれども、トムが気付くと目の前に美しい少女がいました。一瞬トムは自分はもう死んで天国にいるのかと思いました。きっとそうなんだと思いました。   
 少女の好奇心旺盛な瞳がトムを見つめています。
 少女は白くしなやかな肢体を持ち、透き通った銀色のガウンを身にまとっていました。髪は長く金色にキラキラと輝き、整った顔立ちで、碧い瞳は深い湖のように神秘的でした。
「ここは天国なの? 君は天使なんだね。そうなんだね」
 トムは少女に語りかけました。
「いいえ。あいにくここは天国じゃないの」
 少女が微笑んで答えました。
「天国じゃなければ、ここはどこなの?」
 トムはききました。
「ここは山小屋の中よ。あなたは雪の中に埋もれていたのよ」
「えっ! ということは君が僕を助けてくれたの?」
「そういうことかしら」
 少女はやさしくそう言いました。しっとりとした暖かい声でした。山小屋の大きなストーブに薪が赤々と燃えています。どうやら夢ではなさそうでした。
「助かったよ。本当にありがとう。でも、よく君一人で僕をここまで運べたね」
「あたし、力持ちかも……」
 少女の微笑みはまるで天使のようでトムの心は癒されました。
 缶詰め等の食料を少女は沢山持ってきてくれました。二日寝るとトムの体力が回復し、山を降りようと思いました。
「君も一緒に山を降りよう」
 トムがそう言うと少女はちょっと悲しい顔をして山の方を指さしました。
「あたしの家は、あの山の彼方の氷の国なの」
 トムは驚きました。しかしこの世のものとは思えない少女の姿は、人間とは思えないのも事実でした。
「じゃ、そこに帰るの?でもこれっきり会えないなんて嫌だ」
 トムは少女と時間を過ごす間に、いつの間にか少女に淡い恋心を抱いていました。うかつに恋に落ちていたのかも知れません。
「もう一度会いたい」
 トムが言うと少女がこう言いました。
「あたし達もう会わないほうがいいんです」
「どうして。どうしてなの?」
 トムがそう訊くと少女はとても物悲しそうな顔をしました。
「僕は君に恩があるし… このままお別れなんて悲しい。だったら僕はずっとここにいる」
 トムがそう言うと少女は言いました。
「もう一度、春がやってきたらこの場所で会いましょう」
「もう一度春って。そんなに先?」
「ええ。春の一時期でないとあたしはここまで来れないの。すぐにでも氷の国に帰らなくてはいけないから、もう一度春が来たらこの場所で会いましょう」
 少女の眼は真剣で宝石のように輝いていました。
「うん。わかった。約束だ。必ずこの場所で会おうね… ところで君の名を僕はまだ知らない」
「あたし、アニムといいます」
「アニム。いい名だねえ。僕はトムと言うんだ。きっとまた会おうね」
 約束をしてトムは何度も少女のほうを振り返って山を降りました。

 里に戻ったトムは毎日のようにアニムの夢を見ました。夢の中でのアニムの微笑みはトムを胸の奥から暖かな気持ちで満たしてくれるのでした。トムはカレンダーに印をつけ約束の日を数えました。
 やがて季節は廻り春が来ました。トムは、一時もアニムの事を忘れませんでした。
 そしてアニムが約束の場所にどこからともなく現れました。粉雪が舞っています。
「やあ、元気でいた?アニム。会いたかった」
「ええ、あたしもとても会いたかった」
 トムが笑顔でそう話しかけると、アニムが恥ずかしそうに答えました。
 二人は山々をとび回り。美しい景色の中で戯れました。川の水は冷たく、洗礼された自然の恵みに溢れていました。アニムは見たこともない渓谷にトムを案内しました。そこから見上げる山々は天を突き通すほどに雄大で、トムは感動で目頭が潤むほどでした。
 まるでエデンの園のような草原で、二人は時の経つのも忘れ、楽しそうにおしゃべりしました。木々をすり抜ける風はこの上もなくやさしく心地よいのでした。アニムは氷の国の事をしゃべり、トムは山の事や人間の住む町のことを一生懸命話しました。
 二人はかけがえのない至福の時間を確かに過ごしたのでした。やがて夕暮れになりました。
「もう、帰らなくちゃ」
 つぶやくように、悲し気にアニムが言いました。
「まだ、一緒にいたいよ」
 トムが言うとアニムが一瞬無言になりました。そして囁くように、こう訊きました。
「あたし、本当は氷の国の妖精なの。人間じゃないわ。こんなあたしの事でも好き?」
「ああ、好きだ。大好きだよ。会った瞬間から」
 トムの声は震えていました。
「あたしもあなたが好き」
 眼を伏せてアニムがそう言いました。
 トムは、思わずアニムを抱きしめました。すると暫らくしてアニムの様子がおかしい事に気がつきました。腕の中でぐったりして、アニムの身体が氷のように溶けていくのです。そして絶えだえの声でアニムが言いました。
「あたし、人の体温には耐えられないの。ごめんなさい… だから人間を好きになってはいけないの… 恋なんてしたらいけなかったの。でもあたしあなたに会えて幸せだった。ごめんなさい。ごめ……」
 アニムの頬に氷の涙が伝いキラキラと光りました。
 トムはただ途方にくれて泣き叫びました。しかしアニムの身体は跡形もなく完全に溶けて消えてしまったのです。まるで幻のようでした。夢のようでした。
 残ったのは美しい銀色のガウンだけでした。
  
 涙が涸れ果てたとき、トムは夜空の彼方。山々の頂きに流れ星を見ました。
 ――それが、あの美しい少女の魂だったのか知る由もありません。

                            おしまい。
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