転寝(うたたね)前編

Posted by 松長良樹 on 20.2011 0 comments 0 trackback
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 ――まったくばかげた事というのは何の前触れもなく、突然襲い来るのが世の常というものなのだろうか。
 まあ今回の場合はさして大きな事件にはならかったものの、いや、本当は極めて重大で驚くべきニュースだったにも関わらず、一般の眼には殆ど触れずにそのまま風化するという経過を辿ってしまった。
 地方誌の三面記事など知らない人の方が多いのだから。
 高野玲子は何処にでもいる平凡な主婦であった。歳は三十代後半、夫は仕事一本槍な人間で、ユーモアに乏しくストイックであったが、稼ぎは他の男よりは多少良かった。
 ただ家庭を寝る場所だと勘違いしていたらしく、ろくに夫婦の営みも会話も無いまま、気がつけば後ろを向いて高いびきという事がしばしばだった。
 玲子はなんだか心にぽっかりと穴が開いたようで、その穴を埋めるようにカルチャースクールに通いだした。大急ぎで家に帰り旦那の夕飯をつくるような日々が始まったのだ。
 まもなくスクールで女友達が出来たし、お花教室の仲間とお茶をするのも楽しかった。
 そんな時にそれはおこった。
 カルチャースクールは週三回で、火・木は休みだった。木曜日の午後、玲子はおやつのケーキを食べながらぼんやりテレビを見ていた。そしてそのままうとうとと寝込んでしまったのである。寝込んだといってももちろん長時間ではない。時間にすれば五分か或いは十分位の間である。
 玲子がふと眼を開けるとテレビに背中を向けていたのである。不可解であった。どう思い返してみてもソファの反対側に身体が移動していたのだ。
 しかし正気に戻った玲子は夫にもその事を話さず、自分のせいにした。自分が寝ぼけていたと勝手に決め込んでしまったのである。
 しかし二回目にそれがおこった時にはそうはいかなかった。
 それはカルチャースクールから帰り、一休みしたときに起こった。夫の帰宅は遅いのでちょっと休んでから夕食の支度をと思ううちつい寝てしまったのだ。
 気がつくと壁にルノワールの絵画が掛かっていて、それが玲子の半ば開きかけた双眸に飛び込んできたのである。
 そこは見慣れない風景であって家の居間ではなかった。玲子はその場できょろきょろと視線を走らせて辺りの状況を観察した。そしてついにそこが何処なのか思い当たったのである。
それは駅前のカフェであった。つい最近カルチャースクールの三人でお茶をした場所だったのである。まったく玲子は腑に落ちなかったに違いない。なんで居間からカフェに来ていたのか本人もさっぱりとわからなかったのである。
 玲子は事態の分析を図ったが、自分が寝ぼけていたという不本意な結論以外に信じるに足りる説明は出来なかった。
 それに寝ている間に身体が勝手に移動したなどというばかげた話を誰も信じるわけもないし、うっかりすると頭を疑われかねないと玲子は思ったのである。
 しかし、その事態は改善などされず、いや、益々酷くなっていったのである(酷いという表現は当たらないかもしれないが)つまり玲子がうとうとする度に、気がついて眼を開ける場所が段々と遠い場所になっていったのである。最初は数百メーターという距離がやがて数キロにまでになった。玲子は本当に自分は頭がおかしくなったのかもしれないと思ったし、夢遊病の類かとも考えた。
 しかし医者に行く勇気と踏ん切りがつかなかった。疲れているのだろうから、いずれ直ると自分に言い聞かせてしまったのである。まったくその時点で有効な対処法など玲子には思い浮かばなかったのだ。

 その晩からは寝るのさえ怖かったが、一晩熟睡しても玲子の身体は何処へも誘われなかった。一晩の睡眠は彼女を何処にも移動させなかったのだ。
 そう、転寝のあの吸い込まれるような感覚こそが彼女を別世界へ案内していたらしいのだ。

 それから玲子は極力、転寝を避けた。なんと彼女はそれから約一年間というもの転寝をしなかったのである。
 もちろんその時の肉体の移動は彼女の心の深奥に恐怖心を植えつけてしまっただろうし、また彼女は寝ながら旅行をしようなどと言う、風変わりな精神の持ち主ではなかったから至極当たり前のことでもあった。
 しかし人間には油断が付き物で、おまけに玲子は極普通の主婦で超人でもなんでもないのだから、正月に炬燵でみかんを食べ終わり、夫は外出していたし、ちょっと、うとうととしてしまったとしても何の不思議もなかった。
 しかしその一瞬の眠りは彼女をまったく思いも及ばない世界に導いたのだ。

                                 つづく
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