間違えられた男

Posted by 松長良樹 on 20.2011 0 comments 0 trackback
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 一言で言うなら、諸星信也(彼は一般企業に勤めて八年目になる平凡なサラリーマンである)は通勤時に満員電車の中から降りようとした瞬間に消えた。
 実に奇妙な記述、或いは言い回しになってしまうが事実を端的に、全く私情を挟まずに明快に表現しようとするのであれば、やはりこうなるのだ……。
 まわりはと言うと驚嘆したのは言うまでもないが、それは見間違いでもなんでもなく目撃者も多数いたのでニュースにもなったが、今はその辺には触れずに諸星信也本人の行く末について述べていきたい。

 諸星信也はホームに降りるつもりだったから多少身体がよろめいた。そこは駅のホームではなく、まったく見も知らない場所だったのである。彼は辺りを見回し、感嘆の声を上げる羽目になった。

 中天に血のように赤い月が張り付いていた。辺りには不穏な空気が充満し、生あたたかな妖気を孕んだ風が吹きすさんでいた。
 彼の足元には不気味な五芒星形が描かれ、その外側に実に陰気な面構えをした男が黙ってこちらを凝視していた。歳の頃なら六十代であろうか、白髪の刃物のような物騒な眼つきをした男である。
「やっと現れたか! 苦労したぞ。本当に苦労したぞ。新鮮なヤギの血は今ようやく用意したばかりだ」
 むろん、信也にはなにがなんだかわからなかった。
「だ、誰ですか? あなたは誰ですか、そしてここは何処なんですか」
 当然の質問だったが男はその問いには答えなかった。
「しかし、悪魔にしてはひ弱だな、まるで人間に見えるぞ」
 男は信也を注意深く観察している。
「悪魔……」
「とぼけるな。悪魔、人間に化けやがったんだろ、えっ! そうだろ」
 信也は夢を見ているのかと何度も思った。夢なら早く醒めて欲しかった。会社に連絡ぐらいはしないといけない。しかし男は容赦しなかった。
「やい悪魔、俺の願いを叶えろ。そうすれば魂の一つや二つはくれてやるぞ」
「願い事ですって?!」
 信也が周りの状況を観察すると、そこは病院かなにかの廃墟のような場所で、そこの庭に五芒星形が描かれてあるのだ。その中に信也は佇んでいる。
「俺の願いは不老不死だ。永遠の若い命だ」
「僕は悪魔なんかじゃありません。ただの会社員ですよ」
「会社員だ? はっはっはっはっ! ぬかせ!」
 男は醜悪な笑みを浮かべて笑った。
「お前にとっては簡単な事だろう。おまえも不死身だからな」
「……」
 信也はもう一度この気違いじみた状況を把握しようと深呼吸を一、二回した。
 その男はグレーの服を着ていて黒いマフラーを首もとに巻いていた。そして手には鮮血にまみれたナイフを握りしめていた。
 ――そして驚くべき事に地にはヤギが倒れていた。
「とぼけても無駄だぞ、俺はお前を呼び出すたびに半生を捧げてきたのだ。このときの為に俺は生きてきたと言っても良いくらいだ」
「僕は悪魔じゃありません。人違いです。僕は諸星という名でして……」
「ええい! 言うな。俺は昔、悪魔を呼び出した人間を知っている」
「……」
「そうだその男は俺の弟なんだ。思い出せ。俺の弟は悪魔に殺されたんだ。お前に殺されたんだ。わかるか」
 男の眼は尋常ではなかった。それにしても実に頑なで強情そうな男であった。
「そうかもしれません。でも僕は断じて悪魔ではありません」
「まだ白を切るか、お前は弟をただ魂を差し出さないという理由だけで殺した」
「知るものですか、僕にはわかりません」
「呪文 薬草 葫のエキス 黒蝙蝠の牙 ヤギの血、そのほか諸々の物はみな完璧なはずだ。だからお前は悪魔なんだ。そうでなきゃ現れないはずだ、そうだろ! 俺はお前に復讐しようと思っていた。しかし俺は思い直したんだ、今時復讐は流行らんからな、そのかわり、俺に不老長寿をさずけろ。そうしたら、おまえは殺さずにおく。逆らえば聖水でおまえを溶かすぞ」
 男はそう言って聖水の入った瓶を懐から取り出した。ふてぶてしい笑いで顔が引きつっていた。その瞬間に諸星信也は男が嫌いになった。嫌悪感さえ抱いたのだ。
 弟の復讐というならまだわかるが、この男はそれよりも自分の欲望を優先しようとしている。不機嫌な表情が知らぬ間に信也の顔にはっきりと浮かんだ。

 大きな樹木、大木が騒然として軋み、狂おしく枝葉をうねらせていた。
「はははははっ、お前はその五芒星の結界からは出られん。いわばお前は囚われの身、俺の願いが聞けんのなら、この場でお前の身を聖水に晒すぞ!」
「だから、僕は悪魔じゃない!」
 信也の言葉には感情が漲っていた。怒りともつかない衝動だ。

 男が信也に近づいてきた。そしてヤギの鮮血の付いたナイフを目の前にちらつかせた。まるでサド侯爵のような顔をしていた。
「ナイフじゃお前は死なんだろうが、痛みぐらいは感じるだろう」
 そういうと男は信也にナイフを突き立てようとした。さすがに信也が身を反らしてそれをかわした。そして男がバランスを崩したところを思い切り蹴り上げていた。
「ちくしょーっ!」
 と信也は奇声を発していた。以外に脆くその男はその場に倒れこんだ。そしてそのまま動かなくなった。信也は結界から平然と出た。それは至極当然の事でもあった。
 自分のした事に恐怖した彼は男を覗き込むようにその場にしゃがみこんだ。
 男は頭から血を流していた。眼は恨めしそうに開いたままだ。男は倒れる瞬間に廃墟のコンクリートの壁に頭を打ち付けていたのだ。信也は暫らく男を見つめていたが、やがて力が抜けたようにその場にへたり込んでしま
った。悲しげな眼が天を仰いだ。
 
 その時、稲妻が天を引き裂いた。月は隠れ、耳を割るような轟音が辺りに鳴り響いた。突然の嵐である。凶暴な威嚇じみた地鳴りがして、その中に黒い影が出現した。
 その者の額にはまるで丑のような角が突き出ていた。口は裂け、牙が覗いていた。眼は爛々とぎらつき血に餓えた獣のようにも見えた。首は太く、筋肉の束が隆起していた。
「でかしたぞ、信也。よくやった。お前の心は今、憎悪に煮え滾り、怒りに満ちたのだ」
 寒気のするほどの忌まわしい声であった。その者が喋る度に口もとには火炎が生じていた。
 信也は喋れない。ただ呆然としてその声を聞いていた。
「俺は悪魔だ」
「……」
「俺様の代わりにお前はよく働いた。結界と聖水は俺には忌まわしい」
「しかし、なぜ… なんで僕は…」
 呆然としたまま信也がそう言った。
「あの男、賢いようでばかな奴だ。黒蝙蝠の牙では俺は呼べん。黒蝙蝠の唾液のみが俺を呼び出せる。おろかにも間違えていたのだ。しかし俺にとってそれは実に好都合だったがな」
「それで僕が…」
「はははははーっ! お前はいま俺の仲間になった」
 雷雨を伴って颶風が容赦なく吹き荒れていた。廃屋の半開きの扉がばたばたと強風に軋み、ついにちぎれて闇の中へ飛びさっていった。


 信也の額から角が突き出てきた。魔物に惑わされ、狂気が膨れ上がっていた。
 もはや冷血な獣のような眼をして、彼は異様な笑みをつくった……。

                        おしまい。

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